伊曾布神社の歴史

伊曽布神社のすべて ナカツノに東来人居住 弘法大師に出会う 川向こうの(現在俵石の所)大岩の麓に祀りなさい、が伊曽布神社の始まり 何年か、のち洪水で祠は流され二㎞ぐらい流された所に地面から盛り上がった岩が有りそこで水の流れは九十℃曲がり渦を捲いて流れて居た。大水があ流されそのまま何年か放置されていた。鳥取攻めも落ち着き今度は自分達の砦を築かねばならない。仲間が大勢出来た、今の村の川下二㎞ぐらいの所にイケブチと言う集落が有り、川上二㎞ぐらいの所にナカツノと言う集落、竹野村付近で秀吉に付いて香住から案内した人達、始め秀吉を迎えに出た時は三十人位だったがこの地を守らなければならないことがそれとなく解り気がつけば三百人以上の人達が集まってお大賑わい この頃に重家は現在、銀杏の木の所に流され放置されていた祠を建築、屋根の峰の所に秀吉のことを忘れないよう、三、五、の桐の家紋が浮き彫で残っている、二段目には重高、三段目には重政、        一代、 二代、三代、一段目 二段目、 三段目、と伊曽布神社を奉納、ウトウを向いて石塔蕗を築くまでに約260年 そ間にも石段も築積村人の集力なり 銀杏の木が鎮座して約440年

銀杏の木の所に藤原重家と名乗りこの地に来た、彼が秀吉を鳥取城討伐の時案内 この地を任された。大岩の所から1㎞流され流され放置されていた 財力有りこの場所にご本尊を祀り目の前川向こうに砦を築き銀杏の種を三カ所に蒔く
始め、この説明文を見てもなにも解らず30年ほど過ぎてから又興味がわいてゆっくり読みましたすると栃谷の娘、久津の重次、この地の重高、三人兄弟で有る事が解り次々に疑問もわいて神社のことを調べる

冬の神社

伊曽布神社。冬の景色

この石段、石垣は国道建設の時に造られ神社の道を横断して建設された。山居氏が調べ記載された。



天保12年の石燈籠 重家が鳥居と銀杏の木の所にだい一段目の神社を築いてから二段め三段目、石燈籠が完成するまで261年かかり村の人達の努力の結晶だ。石段の幅が広いのは山名の殿さんが籠でお参り出来る為

欅が二本ある雪の景色伊曽宇神社二段目は重高新左衛門

死亡の時に造成、                     天保12年に築かれた石を割る技術が広まり         一段目1581鳥取城討後重家が築いた神社跡           石段の向こうと手前に重高と重秋を埋葬場所

                                                          ギンナンの実、三粒、墓地、畑山、場所場所             は川向に石碑は並んで在る                       

伊神社神社は到来人、空海、から始まり秀吉の時代に鳥取城討伐に道案内この地を賜り山名に返納するまでの20年位に色んな工事が出来た 1581,天正7年秀吉より賜り1604年慶長9年山名に返上